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2019/03/13

昨日昼過ぎに起きて確定申告の印刷した紙を出すために電車で三鷹まで行った。電車に乗るのはファスビンダーをみに行った以来で、それが大体どれくらい前なのか思い出そうと思って体感では2週間前くらいでも実際どのくらいかわからない。自分はいつ・どういうきっかけで映画館に行くことになったか、フィルマークスで恐ろしい数の映画を登録している人が、これも体感では数年前に、「13回の新月のある年に」を褒めていたのを覚えていて、それが最近新しくできた映画館でやるのを何かで知ったというのが一つにはある。それでも自分は色々の展覧会や映画がやっているのを気にしていて行こうかなと思っていてもその日起きてみると家で本でも読みたいような気になってきて止すことがしょっちゅうあるので、みたこともないファスビンダーでどうしてあの時(どの時?)家を出たのか不思議で、なにかしら思い出せないきっかけがあるような気がする。実際楽しみにしていたソクーロフ の「ストーン/クリミアの亡霊」は当日なんとなく嫌になって行くのをやめた。フィルマークスをみればいつぶりの電車かはすぐにわかる。

駅は形が奇妙で好きなのに電車に乗るのは気が滅入る。電車の写真集はよくあるが駅の写真や設計図ばかりが載ってる本は見たことがないからあるなら読んでみたい。行きの電車が大抵空いているのは自分がカレンダーとあまり関わりなく生活しているから納得できるが、帰りが大抵混んでいるのは不思議で、夕方から深夜にかけて電車が混んでいない時間帯というのはあるんだろうかと思う。こういうあたり自分は世間知らずで仕方がないなと思うけれど世間知らずは没交渉だから世間知らずなのであって世間と交渉があればそのうち世間がわかってくるだろうくらいの気でいたい反面、それで迷惑をかける人がいたら悪いなとも思う。

世間と同じ具合に自分にはあまり関わりがないと思っていることがあって、それは例えばスーツとか結婚とか付き合いの飲み会とか丁寧な生活とかがんとか数えればきりがない。数えられるのは普段生活していてそういうことのあるのを横目で見て知っているからで、そこに目に触れないものも含めたら自分に関わりのないことだらけだと思う。

しかし、かつて関わりがないと思っていたものに手を出すことがないわけではない。今年に入ってから、近現代の戯曲を読み始めたが面白いなと思う。思えば映画も3年前までほとんどみたことがなかったし事によると食わず嫌いで損しているのかもしれない。

先週から落語もきいている。若い人が「〜〜とかなんとか言って」というのを「〜〜かなんか言って」としたり、「今度」を「このたび」の意味で近い過去につかったり、「どん詰まり」とか「さんざっぱら」とか、たまに年配の人が使うのをきいて良いなと思う言葉遣いがたくさん出てきてそれだけで面白くきける。人が集まって楽しんでいる物事にはそれなりの理由があって流行るんだなと今更ながらに納得している。しかしまさか自分が確定申告をする身分になるとは思ってもみなかった。下手をするとそのうち結婚してスーツを着て挨拶をすることがあるのかもしれない。がんが先か結婚が先かどちらとも関わりがないままか。それでもこの文章を3/13の深夜に書き始めていま3/14になっているその時間の区別は自分の身と関わりのないことだと思うしこの先も変わらない気がする。