九段理江『東京都同情塔』を読む 第2回
九段理江『東京都同情塔』を読む 第1回 - ■に引き続き、読みかつネタをバラす。
そういえば、前回も今回も、おそらくそれ以降も、この本を読んでいない人のことは想定せずに書いているし、書くことになるだろう。読んでいない人も読むことができるかもしれないが、しかし、それはどういう使われ方なのだろうか。とはいえ、結局はどう読んでもらっても構わない。
誰が書いているのか
この小説には章立てがないため、本記事では以降便宜的に以下6つのパートに分けて話を進める。
1. 視点人物が沙羅の一人称描写(3〜36頁)
2. 幸福学者マサキ・セト『ホモ・ミゼラビリス 同情されるべき人々 完全版』「完全版に寄せての序文」の引用(36〜48頁)
3. 視点人物が拓人の一人称描写(48〜88頁)
4. マックス・クライン「Between Sympathy Tower Tokyo and Tokyo-to Dojo-to: Interior of the “Prison” Tower in Tokyo」の、文章構築AIによる和訳の引用(88〜107頁)
5. 視点人物が拓人の一人称描写(107〜120頁)
6. 視点人物が沙羅の一人称描写(120〜143頁)
これらのパート同士は、「◼︎」という記号によって区切られている。この記号は作中の対話型文章構築AI「AI-built」がユーザーに入力を促す際に文末に用いる記号と同じものである。なお、パート1〜5までは末尾に「◼︎」があるが、6の末尾には付いていない。
書法的なことについてもう少し書くと、パート2と4は全文が太字で書かれているが、これは作中世界(2020年にオリンピックが開催され、ザハ・ハディドの国立競技場が建築された)に存在するとされるテキストの引用であることを示していると考えてよい。他のパートにも度々太字箇所があるが、それらも全て(架空のテキストの)引用を表しているとみてよさそうである。たとえばパート3には、以下のような仕方で、太字の箇所が挿入されてある。
この健康な体と手入れした肌に、余裕のある笑顔を浮かべる意識をしていれば、世間のほとんどの人は僕を惨めな低収入の非正規雇用者とは思わない。かわいそうだと同情しない。社割で買った服を全身にまとって、姿勢を正していればなおさらだ。たとえば豊かで恵まれた、ほとんど何でも持っている、前途洋々の、顔が綺麗な若者と、勝手に認識してくれるらしい。
これは拓人による自分自身を説明する描写だが、ここで引用されている太字箇所は、実はあと二度ほどこの小説に出てくることになる。パート4、マックスによる拓人の描写(のAIによる和訳)「その、豊かで恵まれた、ほとんど何でも持っている、前途洋々の、顔が綺麗な若者は、気の利いたジョークでも聞いたように笑いながら首を振った」*2がそれだ。次いで、パート5で再び繰り返される。少し長いが、引用しよう。
豊かで恵まれた、ほとんど何でも持っている、前途洋々の、顔が綺麗な若者。
画面の中の、自称三流ジャーナリストが僕に与えた形容に立ち止まり、コーヒーで冷ました頭の中で反芻してみる。(中略)そんな彼の体と目を通した僕がこんな形で文章になっていると、知らないところで自分が増殖しているみたいで何だか落ち着かない。
そうだ、と僕は思い立って、自称レイシストが書いた言葉をドラッグしてコピーする。そして、別のウィンドウに表示させていた「伝記」とタイトルがついた文章にペーストする。《僕はちゃんと眠りさえすれば、大抵のことは良くなってしまう。…………社割で買った服を全身にまとって、姿勢を正していればなおさらだ。豊かで恵まれた、ほとんど何でも持っている、前途洋々の、顔が綺麗な若者》の直後、《と、勝手に認識してくれるらしい。》とタイプし、ついでにペーストした文の直前に《たとえば》も付け足す。
これでパート3に出てきた太字の出典マックスの記事であることがわかったわけだが、それだけでなく、パート3の文章自体が、「伝記」と呼ばれる文章の一部であることもわかる。これは拓人による牧名沙羅の「伝記」である(「伝記を書いていた。建築家の女の人の」*4)。この後にも、パート3の最後の文をパート5で拓人が推敲している場面がある。*5
そのままパート3の続きが、114〜118頁まで「《なぜ忘れようとしているかというと、(中略)私は心から安心することができました。》」という形で長々とパート5に挿入される。
ここまでで、作中テキストの引用であるパート2,、4と、「伝記」として書かれたことが明言されたパート3の出所がわかった訳だが、残りの箇所はどうだろうか。前述の「伝記を書いていた」という発言に続いて以下のような会話がある。
「伝記?」と私は訊き返す。「あれ、本気で言っていたの?」
「本気だよ。でも長い文章なんか書いたことないから苦労してる。全然進まないし……どうでもいい自分のことばかり書いちゃうんだよ」
「君の知っている建築家のエピソードを適当に入力して、『伝記っぽい文章にして』ってbuiltに頼めばいいじゃない」
「もちろん、何回もやってる。でも僕の目を通した建築家の女の人じゃないと、なんか伝記にならないんだよ。なんとなくだけれど、でも絶対に、『違う』って体が拒否してる。(後略)」
この箇所でもって、パート1と6を「拓人の目を通した沙羅」の描写であるとみなして良いかもしれない。この時点で確実にパート3は書かれているはずだから、「自分のことばかり……」というのも、パート3の視点人物が拓人であるという意味に解釈することができる。
しかしこれでは心許ない。もう少し補強できるかどうか、沙羅が視点人物を担うパート1、6の会話文にある奇妙な符合を確認してみる。
パート1における、拓人と沙羅の会話
「この暑さ異常でしょ。本当にこんなところでオリンピックをやったなんて信じられない」
「あら、ごめんなさい」なぜかとっさに謝罪の言葉がでる。まるで猛暑の東京を代弁しているみたいに。
パート6における、マックスと沙羅の会話
「It's so insanely hot. I can't believe they actually held the Olympics in this city」
「Oh, I'm so sorry. Well, it's not my fault」
私は立ち上がりながら言った。どうして東京の猛暑に対して文句を言われると、いつも謝ってしまうのだろう。
沙羅の応答には若干の異同があるが、拓人とマックスの発言はほとんど一致している。暑すぎると言うだけならまだしも、2人の異なる人物が10年近く前のオリンピックに、出会い頭に言及するだろうか。これがこの小説の瑕疵でないとしたら、これは片方の発言を参考に、もう片方の会話を創作しているとみた方が自然に思われる。そして、マックスがインタビューの際に拓人の発言を知っている可能性は少ないだろう。
また、拓人が伝記を執筆する際に参考にできるテキストの引用は太字で表されるため、この「暑さ・オリンピック」に関する会話はこの世界にはテキストとしては存在していないと考えられる。その場合、使われているリソースとしては、拓人の記憶、あるいはマックスの録音が用いられていることになるだろう。
ここまで、パート間での引用関係などに触れ、そこから想定されるパート自体の書き手について確認してきた。加えて、前回述べた、沙羅に対する意地悪な、相対化するような書き振りを考えると、丸々引用で構成されているパート2、4を除くパート1、3、5、6は全て拓人の書いた沙羅の「伝記」であるとみて良いのではないか。
次回は、初回の予告通り、感染するものとしての言語という観点を確かめるべく、本作において言語はどのようなものとして扱われているかを考える。
九段理江『東京都同情塔』を読む 第1回
読むからには、ネタバレがある。
「そんなことはない。コンペに勝って、実際に牧名さんが塔を設計することになったら、そうだな、テレビでいっぱいインタビューされるでしょ。記者会見なんかもあるでしょ。そしたらシンパシータワートーキョーのことをそう呼ばずに、東京都同情塔、とあくまで言い続けていけばいいんだよ。強調して言わなくても、自然な感じでね、『東京都同情塔の設計にあたってシェアするべき重要なコンセプトは……』とか、『私が東京都同情塔に期待することは……』とか言っちゃうの、しれっと。(中略)もし、『同情塔』が本当に『シンパシー』よりもふさわしい名前なら、愛称的に広まっていくし、『シンパシー』のことはそのうち勝手にみんな忘れて、一晩眠る毎に確実に忘れるんだよ、(中略)結局そういう気恥ずかしさに耐えられないのが日本人なんだし、事実上なかったことになる。する。」*1
なぜいま、ことさらに「〜を読む」と言いつつ書くのか。もちろんそこには、直接的ないくつかのきっかけのようなものがある。より正確に言えばあることにできる。しかしそのようにして数え上げられる要因のほかにも、こうして書き始めたことに関わる経験未満の経験が無数にあり、全てを数え上げることはあらかじめ断念しなければならないのだから、それらは必要になったときにあらためて取り出して説明すればよいばかりか、私たちが世界にも言語にも必ず遅れをとっていることを踏まえれば、そうする方が気楽に書いていけると思われる。このことは、「東京都同情塔」という小説から導くことができる一つの態度であると言うことも、できるかもしれない。
私がこの小説の初読時に最も気になり、そして最も気に入った箇所は作品終盤の以下の描写である。
誰のために、何のために、牧名沙羅に言葉を覚えさせているのだろう? 私は急に疲労を感じ、PCを閉じ、自分の脳の電源も落とす。そしてからからに渇いた喉と空っぽの胃が現在、何を流し込まれたがっているのか、彼らの望みにだけ耳を済ます。
ホテルから歩いて二十分ほどのところにある青山のカレーショップで、クラフトビール二杯を飲み、ビーフカレーとカレーパンを食べて、来た道を戻る。*2
本作の主要人物のひとりであり、シンパシータワートーキョーの建築家である牧名沙羅は、小説終盤において、「本国でレイシスト扱いされているアメリカ人ジャーナリスト」*3マックス・クラインから取材を受けるために、彼女自身の過ごしているホテルの部屋でふたりきりで会っている。沙羅は初対面のマックスに関して、まず視覚的に「世界に対する占有面積の大きい──要は肥満の──白人」*4と否定的な印象を受けているのだが、次いで嗅覚的に、「カレーでも食べてきたのか、元々の体臭なのか、マックスからはクミン・シナモン・汗・雨・ベリー系の香水が混交した匂いがした。私なら絶対に選ばない香水だ。他人がそこにいる、という明らかな事実を、空気中から確認する」*5。
インタビューのあいだも沙羅は、マックスが「アメリカ人らしいリアクション」を取るたびに、「風が生じ、生理的に好ましくない匂いが鼻先に運ばれて、とっさに呼吸が浅くな」*6ったりしている。
それほどまでに他人の体臭で不愉快な思いをしていた彼女が、その直後、渇いた喉と空っぽの胃の望みに耳を傾けた結果、雨のなかを20分歩いて風味の強いクラフトビール2杯と、まさにマックスの(決して愉快ではない)体臭を例えるのに使った当のカレーを、ふたつの異なった仕方(ビーフカレー、カレーパン、食べ過ぎかもしれない)で満たしているのは、読者にとって滑稽にみえてもおかしくはない(そういえば雨もまた体臭の形容に使われていたのだった)。
作中でこの食事に関してその後特に触れられることはないのだが、同様の滑稽さは冒頭、沙羅がカタカナに関して悪態をつく場面においてもみられる。
誰よりも正確にデッサンをする自信はあるし、漢字を覚えるのもクラスで一番早かった。でもカタカナを書くことに関してはどれほど練習してもだめだった。小学生でも外国人でも、もっと上手く書く。事務所のスタッフからは、「精神に異常を来した連続猟奇殺人犯が書くような字」と評されたこともある。私はカタカナをデザインした人間とは酒が飲めない。美しさもプライドも感じられない味気ない直線である上に中身はスカスカで、そのクセどんな国の言葉も包摂しますという厚顔でありながら、どこか一本抜いたらたちまちただの棒切れと化す構造物に愛着など持てるわけがない。*7
ここまでカタカナを嫌う彼女はしかし、直前のページでは、
マットの上で、仕事に取り掛かる前のルーティンのロングヴァージョン──ピラティス→ビョークの「カム・トゥ・ミー」をフルコーラス歌唱→座禅を組みエロティックな妄想を膨らませる→妄想を抑圧するための太陽礼拝三周→オリジナルのマントラをゆっくりと八回唱える。「私は弱い人間です。私は私の弱さを知っています。私は私の欲望を完全にコントロールできます。私を動かすものは常に私由来の意思であり、私は私の言葉、行動すべてに、責任を取らなくてはいけません」*8
といった具合に過剰なまでにカタカナに支えられている。そんなにカタカナが嫌なのならフルコーラスもエロティックも、オリジナルもコントロールも、言い換えることができただろうと思われる。
先にあげたふたつの描写に、考えと振る舞い(考えることもまた振る舞いではあるが)のあいだで引き裂かれた彼女の物悲しさを読み取ることもできるだろう。端的に、暴力的に断じてしまうならそこには矛盾や一貫性の無さがあるようにみえる。しかし私には、その手前に踏みとどまる読みをしてみた方が良いように思われた。それは単なる直感だったのかもしれないし、あるいはそれじゃあんまりだよ、と考えたのかもしれなかった。今となっては忘れてしまったが、初読時にそうやって片付けてはならないと思ったのは確かで、そこから、これらの描写にはなにかの作意があるのではないかという考えを含んでの、二度目の読みが始まった。
ここで私が考えていたことはふたつあり、それらを提示するだけして、次回の予告とする。
1. これらの描写にみられるある種の意地悪さは、書き手の問題と関わるのではないか
2. 体臭や言葉遣いというモチーフが、「感染するもの」として提示されているのではないか
2025/05/16
私ははじめて、気になっていたれんげ食堂というチェーンの飲食店に行くことができ、そこでイーグルスの「I can’t tell you why」がかかっていて、むかしなにかのミックスリストにこれが入っていたから、きいたことだけがあって、しかし誰のなんという曲なのか知らなかった さいきん携帯を買い替えたためにShazamがインストールされていなくてその場では調べることをあきらめ、そのあとで立ち寄ったダイソーの店内でふと、このまま忘れるかもと思い、サビの文句を踏ん張って思い起こしながらGoogleで「I can tell you why」と検索してたところ、イーグルスの曲であるとわかり意外な感じがした
youtu.beイーグルスといえば父方の祖母がホテル・カリフォルニアが好きであるという話を何べんもきかされたし、同じくらいのしつこさで映画「アルマゲドン」の作中に出てくる家の番地が祖母の誕生日と同じである(5月19日→519)という話をされてそれをいまでも覚えている そのくらいしつこかったのだ アメリカの戸建住宅はよくそこに住んでいる家族の名前ではなく番地を家に記してあって、それこそ戦後に米兵と結婚していまでもアメリカに住んでいる祖母の姉のうちを、祖母と2人で訪れたときに実際みたことがあって、そのときにもその話を祖母からきいたと思う 祖母は自分の誕生日に異常なこだわりがあり、祖父母がそれぞれ所有している車のナンバーはもちろん519に揃えてあったし(祖父は中学卒業からリタイアする時までずっと自動車工場やその関連会社で働いていた)、家の至る所に額装された519という数字の書かれた紙や、木のブロックに書かれた数字を並べたものなどをとにかく色々なところに配置していた 祖母から送られてくるメールの末尾にも「519より」と書いていたようにも思う そこまで自分の誕生日が好きな人はほかにみたことがない そんなわけだったから、高校生の頃にホテルカリフォルニアをYouTubeで調べてきいてみたら面白くもなんともない、その上歌い方がねばっこい歌でがっかりしたんだった むかしはすぐさまその場で知らない・MDやiPodに入れて持ってきていない音楽をきいたりできなかったし、帰ってからアルマゲドンをAmazonプライムでみるというようなこともできなくて、私たちはそういう時にはレンタルビデオ屋にわざわざいかなければならなかった 私はだから、今でもアルマゲドンをみたことがないのにそこに519と記された家が出てくるということだけは知っていて、しかし本当にそんな家があるんだろうか
2024/04/??
起こったこと
ある朝私は、東京の東西にわたって敷かれた都道沿いの歩道を気もそぞろ歩いていた どういう理由があったかは忘れたが、私は浮ついた歩みで進んでゆき、そのまま電柱の支線カバー(黄色い斜めの筒)にパコッと左肩をぶつけた その瞬間、私の後ろを歩いていたおばさん(おばさんが私の後ろを歩いていたのを私はその瞬間まで知らなかった)が、ひとりごとというにはいささか大きすぎる声で悲鳴をあげた 私にはおばさんが私の驚きを肩代わりしてくれたように感じられた そのすぐあとでその場にいた人たちみんなで笑った 後ろを振り向くのが気まずかったから、私たちは全員前を向いたままに笑い声を同一方向に吐き出していた
コメント
上に書いたことを、括弧記号を使わずに書けるようになりたい
大江健三郎『水死』 新視点 ネタバレ有り
以下の文章は大江健三郎『水死』、「奇妙な仕事」、『万延元年のフットボール』のネタバレを含みますので一切のネタバレをきらう心配性のかたはけっして読まぬようお願いいたします
……きのう大江健三郎の水死を読み終わって、最後のところでかなりヘンな事に気が付いたのだが、私の周りで水死をおしまいまで読んでいるひとを知らないうえに、気付いたことも全然大したことないだろうから、友人に水死よんでくれよとわざわざ頼むこともできず、しかし個人的には元々の関心にかかわることであるから誰かしらに言っておきたくもあり、ここで供養する
私は以前から「奇妙な仕事」の書き出しの一文、
付属病院の前の広い舗道を時計台へ向かって歩いて行くと急に視界の展ける十字路で、若い街路樹のしなやかな梢の連りの向こうに建築中の建物の鉄骨がぎしぎし空に突きたっているあたりから、数知れない犬の吠え声が聞こえて来た。
に対して並々ならぬ関心を寄せていた ただの風景描写ではない
「付属病院の前の広い歩道を時計台へ向かって歩いて行く」までで語る主体の移動が、「急に視界の展ける」で移動した主体の視野の変化が、「十字路」で、文末時点での語る主体の位置が、「若い街路樹のしななかな梢の連なりの向こうに建築中の建物の鉄骨がぎしぎし空に突きたっているあたり」で展けた視界のうちで主体の目線の動きが示されており、そのことは最後の「数知れない犬の吠え声が聞こえて来た」ためにそちらをみたのだとあとからわかるようになっている
一文でここまでの情報を込めるのはただ事ではない 初読時には内心で「へんなの!」と言っていたかもしれないが、気付けばときどき思い返してはこの文を一篇の詩のように反芻するようになってくうちに、いつしか鉄骨のつきたつ「ぎしぎし」とはいったいどういうことかということに関心の重心が移ってきた
ところで、きのう読み終えた「水死」の終わりはこうなっている
しかし、森歩きの古強者大黄さんは、注意深く突き進んで、決して倒れないだろう。錬成道場の真上の森は、本町区域を迂回して、谷間の森につながっている。大黄さんは歩き続け、夜明け近くには追跡の警官隊に追いつかれる心配のない場所に到っていただろう。それからは樹木のもっとも濃い葉叢のたたえている雨水に顔を突っ込んで、立ったまま水死するだけだ。
『水死』講談社文庫 p.526
大黄さんは、
本来は黄さんだったのに子供としては柄が大きいので大黄(だいおう)さん、孤児の引揚者のして作られた戸籍の名は大黄一郎、それが気の毒だとお母さんが採集する、薬草の大黄が村での呼び名はギシギシなので、そういうておった人……
『水死』講談社文庫 p.280
と説明されているとおり、語り手やその家族たちからはギシギシ、とかギシギシさん、と呼ばれている 実際作中でも大黄にギシギシのルビが振られたり、ギシギシさん自体がギシギシを自称している場面もある
第八章 大黄(ギシギシ)
『水死』講談社文庫 p.277
大黄さんの自身の発言「〜やっぱりギシギシですが!」
『水死』講談社文庫 p.524
大江自身が「これが小説だと主張する気持ちは半分半分です」と語った『晩年様式集』を除けば、『水死』が大江の最後の「小説」と言って良いだろう そして「奇妙な仕事」は大江のデビュー作だ
そう、大江健三郎の初めの短編の一文目と、最後の「小説」の終わりの文はともに ぎしぎし たって いるのだ
これがどういう種類の冗談なのかは自分にもわかっていないが、検索した限りそういうことを言っている人もみつけられなかったため、新視点ということで書いた
以下余談
作品のネタバレについて 私はまったく気にしないのだが、気にする人がいるのもたしかなので、上では注意書きめいたことを掲げた しかし「気にする人がいるからやめる」式の道徳はクソだとも思っている できることならば根拠を示したうえで、私はやるとかやらないとか言いたいものだが、正直いまのところそこまでネタバレということ自体に興味を持てないでいる そこで仕方なく(怒られるのが面倒で)書いた、書いてしまいました
先日Twitterに万延元年のフットボールのネタバレにあたる投稿をしたくてたまらなくなったのだが、おそらく話の根幹にかかわるネタバレになってしまうだろうからぼかした書き方しかできなかったのがやっぱり気掛かりなのでそのこともついでに書く
詳しくは省くが、NTR+覗き描写のなかで、こちら側をむいた妻の足の裏に拘っていた大江健三郎はやはり大物というほかない
— 風 (@h1_tz) 2024年4月7日
「はじめおれが襖のこちら側から覗いていた間は、鷹が胸や股にさわるのを、ただ疲れているから反抗するのが面倒で、そのままさせているようだったけれども、おれが襖をあけた時にはもう菜採ちゃんは、鷹がやり始めるのを待っていたよ。おれは裸足の足の裏がふたつ、鷹の尻の両側に、おとなしく直角に立っているのを見たもの! おれが、今度は菜採ちゃんに、そういうことをしたら蜜にいうぞ、といったら、菜採ちゃんは、いってもいいのよ、星、といって静かにしていた。とうとう鷹がやり始めても足の裏はそのままじっとしていたし、痛がる様子なんかなかったよ!」
『万延元年のフットボール』講談社文芸文庫 p.344
ここでは、蜜が主人公、菜採ちゃんがその妻、鷹は蜜の弟、星は鷹の子分なのだが、場面としては主人公の蜜に対して星が妻の不貞をねちっこい描写で教えてあげているところ
この足の裏の角度に対する異常なこだわりだけでも大江健三郎の偉大さが示されている 漫画やアニメと違う、小説にしかない強みです
2023/01/17
17日の朝1時ごろ、高架下ぞいの喫煙所にいたら友人から「明日東京の西の方にいるからビールでも飲みませんか」という連絡がきた 「徘徊終わって寝て起きたら連絡くださいね」と言われ気遣いに頭が下がった 結局4時ごろまで歩き、6時ごろ寝る
13時に起きて吉祥寺集合ということになり、のろのろ準備をして家をでて電車に乗る前に駅横の喫煙所寄ろうとしたらバリ封されており、仕方なく駅ビル最上階の喫煙小部屋まで登ってバカでかいタワマン眺めてたら電話がかかってきて、計画変更し友人が私のうちに本を買いにきてくれることになった(私は古物商をしているため)
一度帰って大片付け(おおかたづけ)をし、駅前の日高屋で合流 ビール、冷奴、ねぎチャーシュー、春巻、〆のラーメンを頼む 先日友達と酒を飲んで意識と記憶を飛ばしながら発狂し逐電するということがあったので反省していたんだけど「もしそうなっても私が面倒をみます、何なら酒で酔わせて本を買い叩いてやる(冗談)」といわれたのでじゃあまあいいかと思った 帰りにスーパーに寄って酒と行方不明になっていた来客用スリッパを買った
酒を飲んでから欲しい本物色してもらって30冊近く買っていただき相当助かった ありがたい 音楽かけたりしてしばらくして家を出て帰りしな深夜の散歩に出かけた
酒飲みながら集合住宅とかみてたら感情が高ぶってきて西東京の良さをキモい感じで語ったような気がする 最後牛丼を食べて味噌汁の悪口を言い、店出て近くの公園で喫煙し、そろそろ終電だし帰ろうとなって駅に向かって歩き始めたら、植え込みにじいさんが埋まっていた 以下この文章の本題
じいさんはひっくり返ったカメのように手足をばたつかせていて我々は一度前を通り過ぎそうになったが踵をかえして、手を持って起こそうとしたが全然無理で(脱臼しちゃうんじゃないかと恐れる気持ちもあった)結局肩を担ぐようにして起こして、そのままもうほとんど自分で歩けない状態のじいさんを近くのベンチまで運んだ ベンチに座らせて「大丈夫ですか」「水はいりませんか」「お家は近いんですか」とかきいてあんまり要領を得ない回答をされてたんだけど「お酒飲んできたんですか」ときいたところ「あたりまえよう」かなにか言ったあと、じいさんはあっけらかんとした顔で「あなたたちもくさいねえ」としみじみ言ってきた(友人の説では「お兄ちゃんなんかくさいなあ!?」だったらしい) 私はかなり面食らって「酒のんでタバコ吸ってきたからねえ」と返した 前後不覚になって植え込みから引きずり出されてその感想が出てくることがかなりおもしろく、かっこよくもあってただただ脱力した
終電の時間も近付いていたので「歩けるようになるまで少し休んでから帰ってくださいね」とだけ言って我々はじいさんを置き去りにし、帰りに駅前の交番に寄ってじいさんが公園で前後不覚になってると伝えあとのことは任せ、友人は終電で帰っていった
この日のことは何年かあとに思い出しても笑えると思うが、自分の記憶に自信がないので記録に残す
じいさん、おもしろすぎた
最後にひっくり返ったカメにかんする私の大好きな短文をご紹介 途中の食べ物の話とかもかなり良い
ある若い統合失調症の患者さんが、初めて入院して二日ほどの時、「家に置いてきた亀のことが心配」とつぶやいた。餌のことを心配しているのかと思って聞いていると、「ひっくり返ると機械になっちゃうと思って」と言う。「カメ」がひっくり返って「メカ」……。
2023/01/10
午前2時頃寝る準備をして布団に入るも全然眠れる気配なく、酒を買いに行って歩きながら久々にしゃべる人と電話した
近況報告して私は一年かけて歴戦の歩行者になった話をしてたら旅行の話になり、ダムの前にある温泉を教えてもらった ダム前温泉というだけですでに古賀春江の絵みたいで面白いのに、放流すると温泉は完全に水没するらしくてかなり良かった
駅A 自宅 駅B
駅Bまで歩いていってトップバリューみたいな酒をふた缶買って飲みながら駅Aまで歩いてかなり空腹だったので4時に開店した牛丼屋でねぎたま牛丼を食べた 米が一部炊けてなくてカチコチになっておりそんなことは初めてだった 私のあとに来た人らも硬い米を食べたんだろうか 帰りにもうひと缶買って一気飲みして寝た
◆◆◆
9時頃起きて1時間程度もぞもぞして準備して諏訪敦の展示をみにいった
実はかなり苦手意識を持っていた画家で、以前仕事で画集を何度かみる機会があり、その度フランス書院の装画みたいで怖い(これをここに書くの本当に大丈夫なのか?と思ったけどなぜ苦手かといえばそのようにみえるからだしそう書くしかない)と思っていたんだけどツイッターのひとがすごく良かったと言っていたのをみたので、みにいくことにしたのだった
最近府中を深夜徘徊しまくってるんだけど、暗いなかで歩くのと晴れていて歩くのとでは距離感に随分差があって、暗いと情報量が少なくて空間把握する際に実際よりも圧縮されるのかしら、とか考えていたけどなかなかつかなくて改めて府中の地理のゆとり感?に感動する 競馬場、競艇場、美術館、公園、街道、多摩川、デカい集合住宅郡、学校、刑務所 あと府中市立美術館は建物自体もすごく良かった またみにいきたい
展示は入って一番目にあった《father》1996年(美術館のサイトに画像があります)がとにかく良くてド頭からこれでは、どうなっちゃうんだ、と怖くなったけどその絵が展示の中で最も良かったのだった
光をちゃんと捉えている絵画って輝いているようにみえるんだっていうのをPeter Doigのときにも思ったんだけど、また思い出した
静物画のシリーズもかなりよくて、額がとにかくセンス良かったのとライティングもかなりキマっていた そして順路を歩いていって別の部屋に入ってかなりデカい大野一雄の絵をみて息がヒュッとなった
図録が5000円超えててたまげました
ツイッターのひとの言うことを信じてみにいって良かった
帰りは大國魂神社の方へいって提灯群とどデカい銀杏の木をみて街道を北上して帰った なんだかんだ20kmくらい歩いたので帰ったら5時間くらい気絶






