amazonアソシエイトプログラム参加済

2019/01/31(2019/02/01)

家に帰ってかばんを開けたらノートパソコンに潰されてぐしゃぐしゃになった源泉徴収票が出てきた。昨日配られたのをすっかり忘れてたなと思いつつ中身を何の気なしに見たら聞いたこともないような年収が書いてあり底冷えした。すぐに暖房をつけた。

この一年、嫌なことをするのはやめようと決めて実際にそうやって過ごしているから収入に物足りなさはあってもそれ自体に問題は無い。小さい頃は怠けたりすることが本気で罰当たりなことだと思っていたし徳を積む気持ちで嫌なことをやっていたから可愛げのない子どもだったと思う。今自分が怠けているとは思わないけど嫌なことはほとんどしていないのも事実でそういう意味ではかつてないほどに落ち着いた気持ちで過ごせている。呪いが解けるというのはこういうことなのかもしれない。

最近はフィクションに接するときどうしても自分の身に置き換えて考えてしまうのを徐々にやめられるようになってきた気がする。読んだり見たりする前にそれを書いたり撮ったりした人がいて、その作品が目の前にあるという段階ではまだ、それは全く自分と関わりのないものなのだという諦め?がついたのかもしれない。みんなそれぞれ自分のためにやってるのだから当たり前か。何かあるんじゃないかと思ってインプットばかりしてるのも同じく呪われているような気がしてきた。かといってアウトプットする気になるわけでもない。それでもちまちま読んでいくと、稀に製作者に対して、尊敬できる・好ましい・酒を一緒に飲みたいと思えるような文章やシーンがあってかなり助かる。例えば藤枝静男の空気頭の冒頭。

 二十代の終わりころ、滝井孝作氏を訪問すると二、三百枚の本郷松屋製の原稿用紙を私の前に置いて「これに小説を書いてみよ」と云われたことがあった。そして「小説というものは、自分のことをありのままに、少しも歪めずに書けばそれでよい。嘘なんか必要ない」と云われた。私は有難いと思ったが、もちろん書かなかった。そのころの私には、書くべき「自分」などどこにもなかったから、書きようがなかったのである。

 私はこれから私の「私小説」を書いてみたいと思う。

 私は、ひとり考えで、私小説にはふたとおりあると思っている。そのひとつは、滝井氏が云われたとおり、自分の考えや生活を一分一厘も歪めることなく写して行って、それを手掛かりとして、自分にもよく解らなかった自己を他と識別するというやり方で、つまり本来から云えば完全な独言で、他人の同感を期待せぬものである。もうひとつの私小説というものは、材料としては自分の生活を用いるが、それに一応の決着をつけ、気持ちのうえでも区切りをつけたうえで、わかりいいように嘘を加えて組みたてて「こういう気持ちでもいいと思うが、どうだろうか」と人に同感を求めるために書くやり方である。つまり解決ずみだから、他人のことを書いているようなものである。訴えとか告白とか云えば多少聞こえはいいが、もともとの気持ちから云えば弁解のようなもので、本心は女々しいものである。

 私自身は、今までこの後者の方を書いてきた。しかし無論ほんとうは前のようなものを書きたい慾望のほうが強いから、これからそれを試みてみたいと思うのである。

 

二年前くらいの自分がこういう話を読んだらおそらく妥協だといって非難しただろうけど、呪いが解けることと妥協することは全く違うことで、例えば寒いなと思ったら暖房を聞いたこともないような温度・風量設定にすれば良いんじゃないか。それは悪いことではない。