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2020/02/14

早稲田松竹は入れ替えがなくて、それがとてもよかった、優しさ。喫煙者じゃなかったらよかったのにと、とても久しぶりに思った。

 

受付で立ち見整理券をもらってから、40分位暇があったので佇まいが画廊のような古書店に寄った。入ってすぐの棚に、欲しかった本(瀧口修造がつくったクレーの画集と、モーリスドニのカタログ、あとアンドレケルテス)が3つも並んでいたけどすべて買いたい値段の1.7倍くらいの値がついていたので興味ないフリをして通り過ぎた。職業柄大抵欲しい本は決まっていて、古書店に行くと値段と状態だけ確認してあとは懐具合と相談、ということになるんだけど、そういう振る舞いってはたからみるとすごく嫌な感じだろうなと思う。背文字だけみて棚から取り出してまず後ろの見返し開いたあと天地小口確かめて書き込みなどないかページを素早く捲る様子というのはみていて気持ちの良いものでもない。しかし立ち見券の集合時間があったからやむなく素早くみた。自分の他にお客が一人いたから助かった。結局、二笑亭の文庫(式場隆三郎著、藤森赤瀬川他による増補のある版)と、アレントの政治論文集を(友達の妹がアレントアガンベンを好きだと言っていたということを思い出しながら)買った。綺麗な店内なのにレジの前に小学生の頃朝礼などで使われていたような、電池駆動のマイクとスピーカーのセットが置かれていて大変そうだな、と思った。値段を確認して懐具合と相談したくなる本が相当数あったから、店を出てから少しだけ走った。松竹にくるのが初めてだったから勝手がわからなくて、少しだけ大通りで信号無視したらやばいかなと考えてやめた。結局前の回が満席だったせいで時間が延びていて、全然余裕だった。戸の前で待たされている間、後ろであまり映画に興味がなさそうな老夫婦が話していて、思ったことがそのまま口から垂れ流し、という喋り方の旦那のほうが「今日の映画はびっくりマークが二つとも付いてるね」と言っていて、「確かに」と思っていたら女の人は「シニアって65歳からかな?」と返事をして、そのあとはよく聞き取れなかったけど、30秒後くらいにバイトリーダーみたいな係の女の人の声で「一般で買ったチケットを、シニアに変更だから400円かける2で800円」と言っているのが聞こえた。

 

カネフスキーとアレクセイゲルマンの二本立てで、どちらかというと動くな、死ね、甦れ!の方が出来が良いのかなと思っていたけど、フルスタリョフ、車を!のほうが全然良くできていた。音がものすごくモンタージュされていたような気がするけど、Wikiとかをみる限りそういうことが書いていなくて、帰ってから次の日同じ上映を見に行く人に、「音が変だったよ」とだけ伝えたのだけど、見終わったその人から「カネフスキー確かに音が変だね」と言われてかなり混乱した。アレクセイゲルマンの音響について何かご存知の方は力を貸して下さい。カネフスキーの音は不愉快だった。その日は帰ってから地下室のメロディをみたんだけど、「対象aとしてのお金」ということの典型的な例を示してあったこと以外完全な駄作だった。ハリウッドとかフランスのおさだまりノワール(そんなジャンルがあるか知らないが)をみてると、自分の嫌いな感じでも、ゲルマンとかカネフスキーみたいな、他の人のやったことのない表現をしようという試みだけですごくえらいよな、という気持ちになる。その点クストリッツァアンダーグラウンドってやっぱり凄さがわからない。室内で自転車乗ってる映画で良くないのあれしかみたことがない。

2020/02/09

これからミケランジェロアントニオーニをみる。来週には松竹でアレクセイゲルマンとヴィターリーカネフスキーをみるだろう。早稲田、ということにコンプレックスがあって松竹に行ったことがなかったから、何事も起こらずに行くことができると良いと思っている。

 

「全部意味無い」というなかばスラングのような表現があるけれど、仮に彼らが意味ということが剥ぎ取られてそれでも残っている何かを指してそういうのだとしたら、それをみることができているんだろうかとうらやましく思える。

2020/02/06

私が私でいられる ということと 私が私でいられなくなるかもしれない ということの両方に困っているんだと思う。私が私でいるうちは全てのことが決まりきっていて、思ってもみないことが起きたりすると自分というものが無くなった気がする。二つの気分の間を行ったり来たりして馬鹿らしいから、繰り返しの作業や何か型のようなものを身につけることと、生活に偶然性を持ち込むことの両方を、それぞれに対して行わないといけない。そう思う一方で、何もせず行ったり来たり馬鹿らしくしているのでも別に良いと思っている時もある。

 

偶然性を持ち込むのって意図してやることでもなくて、一番手っ取り早いのは他者を連れてくることだけど、それって他者を道具として使ってるような気もする。

 

ハマスホイ(むかしハンマースホイだったはずなのにいつのまにか短くされている)の展示をみにいった。知人が先に行ったときにハマスホイ以外にいくつか良いのがあったと言っていて、探しながらみて、あとで答え合わせをしたらずばり正解した。ハマスホイは言うまでもなく良かった。ほぼリアリズムな室内画(そんなジャンルがあるのかわからないが)に対して、風景画は建物がケーキのような質感で描かれていたり野原がコミカルな起伏になっていたりして意外だったけどそれも良かった。

 

そのあとで修士の卒展をみにいきそびれた友達の作業場にお詫びのビールを持って行ったらその人の彼氏もいて、高村光太郎高田渡の話をきいた。ビールを3本持って行ってみんなで飲んで話したあと、帰るときになって彼がプレモルを2本くれた。

2019/07/04

2月ごろにDVDでアルモドバルのトークトゥハーをみたときから、素直なものに感動することに対して少し抵抗がなくなったような気がする。映画の中で、主人公の男が、大きいベランダのようなところで行われているパーティに出ている。そのパーティでは何故かカエターノヴェローゾが本人としてライブをしていて、男はモノローグで「カエターノが身に染みた」みたいなことを言う。私の身近にカエターノのファンがいる。基本的にはひねくれたような音楽をよくきく人なのに何故かカエターノは好きなんだと話していた。自分は映画のその場面をみてから許されたような気分になってカエターノのすでに買ってあったアルバムをちゃんと聴き直した。

それほど時間を開けずにおなじアルモドバルのバッドエデュケーションをみたらやっぱり一番覚えているのは子どもが牧師のギター伴奏でムーンリバーを歌うソプラノの声だった。その流れがあってなんとなく13回の新月がある年をみて、その事は前のブログに書いた。それ以来映画をみにいっていない。今度そのアップリンクでベルリンアレクサンダー広場14話を何日かにわけて上映するらしい。折角会員になったのだから是非みに行きたいと思ったがどう考えても時間がとれない。一体どんな生活をしている人があのスケジュールをこなすことができるんだろうか。じいさんばあさんくらいか。学生に時間があるというのは嘘だと、自分の学生時代を振り返って思う。パーマネントバケーションを撮ったとき、あるいはそのあとでもいいけど、ジムジャームッシュは何もすることがないずっと続く時間を持っていた、あるいは持つ予定があったんだろうかとよく考える。

自分はいつか終わりの決まっていない長い休みを持つことができるだろうか。

シニカルでいても良いのと同じ理由で素直な気持ちでいても良いと思ってからはクッツェーとかウェルベックとかフランゼンみたいな小説がポーズにみえてしまってすこしつまらなくなった。結局がっかりするのは、人を小馬鹿にした上で訴えたいことってなんだよと読む前からハードルが高くなってるからかもしれない。

それでも自分の基準からすると必要以上に神経質な・深刻な・ヒステリックな人をみると嫌な気持ちになるから、別に自分がきれいな人間になったわけではないのだと思う。

あとジェイコブコリアーのムーンリバーは好きじゃない。

2019/03/13

昨日昼過ぎに起きて確定申告の印刷した紙を出すために電車で三鷹まで行った。電車に乗るのはファスビンダーをみに行った以来で、それが大体どれくらい前なのか思い出そうと思って体感では2週間前くらいでも実際どのくらいかわからない。自分はいつ・どういうきっかけで映画館に行くことになったか、フィルマークスで恐ろしい数の映画を登録している人が、これも体感では数年前に、「13回の新月のある年に」を褒めていたのを覚えていて、それが最近新しくできた映画館でやるのを何かで知ったというのが一つにはある。それでも自分は色々の展覧会や映画がやっているのを気にしていて行こうかなと思っていてもその日起きてみると家で本でも読みたいような気になってきて止すことがしょっちゅうあるので、みたこともないファスビンダーでどうしてあの時(どの時?)家を出たのか不思議で、なにかしら思い出せないきっかけがあるような気がする。実際楽しみにしていたソクーロフ の「ストーン/クリミアの亡霊」は当日なんとなく嫌になって行くのをやめた。フィルマークスをみればいつぶりの電車かはすぐにわかる。

駅は形が奇妙で好きなのに電車に乗るのは気が滅入る。電車の写真集はよくあるが駅の写真や設計図ばかりが載ってる本は見たことがないからあるなら読んでみたい。行きの電車が大抵空いているのは自分がカレンダーとあまり関わりなく生活しているから納得できるが、帰りが大抵混んでいるのは不思議で、夕方から深夜にかけて電車が混んでいない時間帯というのはあるんだろうかと思う。こういうあたり自分は世間知らずで仕方がないなと思うけれど世間知らずは没交渉だから世間知らずなのであって世間と交渉があればそのうち世間がわかってくるだろうくらいの気でいたい反面、それで迷惑をかける人がいたら悪いなとも思う。

世間と同じ具合に自分にはあまり関わりがないと思っていることがあって、それは例えばスーツとか結婚とか付き合いの飲み会とか丁寧な生活とかがんとか数えればきりがない。数えられるのは普段生活していてそういうことのあるのを横目で見て知っているからで、そこに目に触れないものも含めたら自分に関わりのないことだらけだと思う。

しかし、かつて関わりがないと思っていたものに手を出すことがないわけではない。今年に入ってから、近現代の戯曲を読み始めたが面白いなと思う。思えば映画も3年前までほとんどみたことがなかったし事によると食わず嫌いで損しているのかもしれない。

先週から落語もきいている。若い人が「〜〜とかなんとか言って」というのを「〜〜かなんか言って」としたり、「今度」を「このたび」の意味で近い過去につかったり、「どん詰まり」とか「さんざっぱら」とか、たまに年配の人が使うのをきいて良いなと思う言葉遣いがたくさん出てきてそれだけで面白くきける。人が集まって楽しんでいる物事にはそれなりの理由があって流行るんだなと今更ながらに納得している。しかしまさか自分が確定申告をする身分になるとは思ってもみなかった。下手をするとそのうち結婚してスーツを着て挨拶をすることがあるのかもしれない。がんが先か結婚が先かどちらとも関わりがないままか。それでもこの文章を3/13の深夜に書き始めていま3/14になっているその時間の区別は自分の身と関わりのないことだと思うしこの先も変わらない気がする。

2019/01/31(2019/02/01)

家に帰ってかばんを開けたらノートパソコンに潰されてぐしゃぐしゃになった源泉徴収票が出てきた。昨日配られたのをすっかり忘れてたなと思いつつ中身を何の気なしに見たら聞いたこともないような年収が書いてあり底冷えした。すぐに暖房をつけた。

この一年、嫌なことをするのはやめようと決めて実際にそうやって過ごしているから収入に物足りなさはあってもそれ自体に問題は無い。小さい頃は怠けたりすることが本気で罰当たりなことだと思っていたし徳を積む気持ちで嫌なことをやっていたから可愛げのない子どもだったと思う。今自分が怠けているとは思わないけど嫌なことはほとんどしていないのも事実でそういう意味ではかつてないほどに落ち着いた気持ちで過ごせている。呪いが解けるというのはこういうことなのかもしれない。

最近はフィクションに接するときどうしても自分の身に置き換えて考えてしまうのを徐々にやめられるようになってきた気がする。読んだり見たりする前にそれを書いたり撮ったりした人がいて、その作品が目の前にあるという段階ではまだ、それは全く自分と関わりのないものなのだという諦め?がついたのかもしれない。みんなそれぞれ自分のためにやってるのだから当たり前か。何かあるんじゃないかと思ってインプットばかりしてるのも同じく呪われているような気がしてきた。かといってアウトプットする気になるわけでもない。それでもちまちま読んでいくと、稀に製作者に対して、尊敬できる・好ましい・酒を一緒に飲みたいと思えるような文章やシーンがあってかなり助かる。例えば藤枝静男の空気頭の冒頭。

 二十代の終わりころ、滝井孝作氏を訪問すると二、三百枚の本郷松屋製の原稿用紙を私の前に置いて「これに小説を書いてみよ」と云われたことがあった。そして「小説というものは、自分のことをありのままに、少しも歪めずに書けばそれでよい。嘘なんか必要ない」と云われた。私は有難いと思ったが、もちろん書かなかった。そのころの私には、書くべき「自分」などどこにもなかったから、書きようがなかったのである。

 私はこれから私の「私小説」を書いてみたいと思う。

 私は、ひとり考えで、私小説にはふたとおりあると思っている。そのひとつは、滝井氏が云われたとおり、自分の考えや生活を一分一厘も歪めることなく写して行って、それを手掛かりとして、自分にもよく解らなかった自己を他と識別するというやり方で、つまり本来から云えば完全な独言で、他人の同感を期待せぬものである。もうひとつの私小説というものは、材料としては自分の生活を用いるが、それに一応の決着をつけ、気持ちのうえでも区切りをつけたうえで、わかりいいように嘘を加えて組みたてて「こういう気持ちでもいいと思うが、どうだろうか」と人に同感を求めるために書くやり方である。つまり解決ずみだから、他人のことを書いているようなものである。訴えとか告白とか云えば多少聞こえはいいが、もともとの気持ちから云えば弁解のようなもので、本心は女々しいものである。

 私自身は、今までこの後者の方を書いてきた。しかし無論ほんとうは前のようなものを書きたい慾望のほうが強いから、これからそれを試みてみたいと思うのである。

 

二年前くらいの自分がこういう話を読んだらおそらく妥協だといって非難しただろうけど、呪いが解けることと妥協することは全く違うことで、例えば寒いなと思ったら暖房を聞いたこともないような温度・風量設定にすれば良いんじゃないか。それは悪いことではない。

2018/12/31

今年はよく眠ったので一年が短かった。眠れなくて困っていたのだから進歩だと思う。Santa Feがたまたま目の前にあって手に取ったらこの前見た空耳アワーとの差で時間の流れを感じた。自分は過ぎたことをあまり覚えていられないからこういう風にしか時間の流れを感じられず少し寂しい。それでも寒い日に外に出て陽が出ていればまぶしくて良い気分になるし、そういうことは愚鈍な自分なりに少しでも感じていたいなと思う。

昨日初めて遊ぶ人に色々質問していたら、自分は普段聞き手になる方が多いですねと言われて、少し反省している。暗に質問責めされることが愉快ではないと言われたように思う。自分は小さい子どもと遊ぶ時なども大抵、遊びながら何が好きなのとか普段どういう遊びしてるのとか、相手からちゃんと返事が返ってこなくても質問責めにしているなと思い出した。自分はあまり質問されないから質問責めにされる気持ちはわからない。あたりさわりのないコミュニケーションで相手について知ろうとするのがおかしいとは思わないけど、たしかにあたりさわりのないコミュニケーションをすべきときはあって、その辺の匙加減がわからない。別の友達と一昨日遊んだとき色々きいてたら「自分には表現したいことがあるけどそれが環境のせいでうまく表に出せなくて大変」と言っていてよかった。私は表現したいことがある人を応援しています。私にはそういった欲がないのでこのブログも印象の忘備録として気が向いたら書く。